自分関係が崩れてしまった時に

2021年2月21日号
リライフアカデミー講師・公認心理師 藤田先生


 
メルマガを読んで下さっている皆様、こんにちは。
今回は私、藤田が担当させていただきます。
 
まずは、今回もお礼から。昨年末のメルマガに、沢山の反響をいただきました。メルマガのフォームからご感想を送って下さったり、クリニックで声をかけて下さったり。中にはわざわざ藤田宛に年賀状にて感想を寄せて下さった方も。どれも本当に嬉しいです。ありがとうございました。
 
さて、今回は、飼い猫との別れを書きたいと思います。
 
飼い猫が亡くなって1ヶ月が過ぎました。
2002年6月。日本が自国開催のサッカーW杯に湧いていた最中拾われてきて18年半、ずっと一緒だった猫。これまでも2匹飼ってきましたが、1匹目は4年でいなくなり、2匹目は7年で交通事故死。一番長く一緒にいてくれたこの子が、最後を看取る初めての子でした。
 
さみしい。
確かに、さみしいです。
腎臓が悪くなってからの最後の1年は闘病生活で、いつお別れでも、と覚悟はしていました。何度か本当に危ない時もあったし、目に見えて弱っていった最後の1ヶ月は辛かったです。自力で歩くことも難しくなった昨年末。それからは、今日が最後かもしれない、毎日そう思って過ごしていました。
 
さみしくないわけなんか、無い。
 
それでも、今のところペットロスにはなっていません。変わらず日常を送れているし、泣いたのも当日と翌日くらい。仕事は待ってくれない、というのもありますが、ロスにならずにいる大きな理由は、同居の母です。
 
母はしっかりとペットロス。毎日泣いています。当然で、自然なことだし、早く立ち直って欲しいとも思いません。ゆっくり。ゆっくりでいい。受け入れられるまで、支えてあげたい。そう思っています。
 
今の自分には、ペットロスの母を支えるという役割があります。だから、悲しみに浸っているわけにはいかない、そう無意識に感じているように思います。
 
「支えること」に、支えられている。
 
正直に言えば、僕は、こういう生き方にはあまり賛成できません。「他人のお世話」に依存するのが日常になれば、それを失った時のリスクが大きくなるからです。これもある種の「他者中心」の生き方と言えるでしょう。
 
ですが、大き過ぎる悲しみに直面している、非日常な今なら、これも悪くない。「支えること」に支えられながら、私もこの悲しみをゆっくりと受け入れて行こうと思います。
 
生きていれば色々なことが起こります。日頃「自分10」「自分中心」を心掛けていても、それが崩れてしまう時だってある。そんな時は、何かに、誰かに寄りかかって、心の回復を待つのも一つの手。そう思います。
 
締め括りに、大好きな河島英五「生きてりゃいいさ」の一節をご紹介します。
「喜びも悲しみも、立ち止まりはしない。巡り巡っていくのさ」


公認心理師の藤田
 

 
 
ご感想ありがとうございます。以下にご紹介します。
*頂いた感想全てを掲載できないことをご了承ください。
 

 


 
藤田先生のお話しを読んで、ホッコリしました。
そしてその夜、看病していた家のうさぎさん。。。息をひきとりました。
家にいる私が殆んど看てたので、あー 私だけじゃないんだーと、解放され楽になった流れからの最後の看とりで、自分自身をとても守れてる感じです。
藤田先生、藤田先生のお母様、ありがとうございます!
そして、うさぎさん。13年間ありがとう。ありがとう。ありがとう
 


 
大事に大事していた猫ちゃんの死。自分の心の真ん中にいた猫ちゃんの死は、受け入れ難いことと思います。私も、先日なのですが、ぬいぐるみを頂いて、ハナちゃんと名前をつけて、時々話しかけています。そしてぎゅっと抱きしめて、「ハナちゃんは私の味方だよね。見守っててね。」とか、色々。ー何かに誰かに寄りかかって、心の回復を待つのも一つの手。ーとありましたが、無意識の内にハナちゃんに声かけしてたのは、良いことだったんだなと思いました。。強くなろうと無理に心を引っ張っるより、ありのままの自分を見守る事は、いいことなのだと思いました。